李成桂について
朝鮮王室の根元である全州李氏の始祖は新羅で「司空」という役職に就いていた李翰だと「太宗実録」など朝鮮王朝時代の歴史書には記録されているが、現実の李翰は統一新羅時代から高麗時代にかけて全州地方に勢力をもっていた有力地方豪族だと考えられている。李翰とその子孫たちは全州の有力者として影響力を持ち、1170年の武臣の反乱を契機に中央政界に進出した。しかし全州李氏一族の発展はすぐに躓くことになる。李成桂の六代前の李?は兄の李義方と共に武臣の乱鎮圧の勢いに乗じて中央に進出したが、兄が出世競争に敗れると李?も都から追放され、夫人も流離いの身となった。李?の子で、李陽茂も苦難の日々を過ごした。そして彼らは都での権力闘争に敗れると、故郷の全州で一揆を起こした疑いまでかけられるようになる。ついに李成桂の四代前、李陽茂の子である李安社は180名に及ぶ一族郎党を率いて故郷を離れた。最初彼らは江原道に定住したが、中央からの追手に見つかったため、当時元が支配していた咸鏡北道に亡命した。
朝鮮王室の記録では「李安社が地方の役人と女を巡って激しく対立し、その役人が何かにつけて揚げ足をとり李安社を排除しようとした。それに堪えられなかった李安社は一族郎党を率いて江原道に避難したが、その役人が人事異動で江原道の責任者として来ることになったので、再び一族郎党を率いて咸鏡北道に移住した。そこは元の影響下にあり、国外亡命の様相を呈した」と記している。しかし現在では研究が進んだ結果、これが事実ではないことが明らかとなった。その実態は中央政府の監視や圧力に耐えられなかったか、すすんで中央に反旗を翻した末に敗北して亡命に至ったと考えられている[3]。咸鏡道北部に亡命した李安社は元からダルガチの職責を与えられ周辺の女真族の統治を任された[5]。しかし女真族との間に徐徐に対立が生じると[5]、李成桂の曽祖父李行里(翼祖)は一族郎党を率いて南方の江原道安辺郡に移住した[5]。全州李氏一族は磨天嶺以南(以北には女真族の集落が散在)の東北面を管轄する大勢力となり[5]一種の独立政権を築いた[5]。そして1335年、李成桂が双城総管府[6]の和州(咸鏡南道の永興、現在の金野郡)で李子春と永興崔氏の子として生まれた。
東洋史学者尹銀淑(ユン・ウンスク)博士とモンゴル系中国人学者・エルデニ・バタル博士(内モンゴル大専任講師)は博士の学位論文を通じて、李成桂は高麗系モンゴル軍閥だったという新しい学説を主張している彼らは13~14世紀に東北、満洲地域を元のオッチギン家が支配したという事実に注目したと述べている。 チンギス・ハンが1211年に征服した土地を近親者に分け与え、オッチギンには東北、満州地域を統治させた。 オッチギンは遊牧と農耕を基盤にこの地で独立的な勢力を形成していた。 李成桂の高祖父 李安社は全州から豆満江流域の斡東地域に移り、 後の1255年に千戸長、ダルガチの地位を元皇帝から賜った。千戸長はモンゴル族以外の人が任命されることが非常に珍しい高位の職で、 実質的にはオッチギンから認められた軍閥勢力が就任していたと彼らは述べている。 1290年にオッチギン家で内紛が起きたため、李安社の息子、李行里は斡東の基盤を失って咸興平野に移住したが、千戸長、ダルガチの職位は李行里の曽孫子である李成桂の時まで五代に渡って世襲された。
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